Essay
2026.4.12
▷The 5th floor Pre-Curatorial 2025 エッセイ
関係としての地図を繕うために / 状態としての「野」 / 存在としての「野」 / 行為や場としての「野」
私は昔から、野良猫を見つけるのがかなり達者で、誰しもが通り過ぎるような完璧な具合で擬態する猫たちを「あ!」と指を差し、通行人のひとを振り向かせるのが好きな子どもであった。何を書こうか考えているとき、ふとこの記憶を思い出した。そこから始めるのがよい気がした。昨秋、上野公園が銀杏で香り立つ頃合いに The 5th Floor「Pre-Curatorial 2025」に参加してから数ヶ月、私のなかで醸成された記憶や思索を、「野」という言葉をもちいてここにまとめてみようと思う。
そもそも「野」という言葉が、あのときからうまく片付かないまま残り続けていた。最初から明確な定義があったわけではないが、いくつかのレクチャーやトークを聞くなかで、それぞれ別の話題に見えたものが、どこか同じ地面に触れているように思えた。制度とオルタナティヴ、都市とアーカイヴ、パフォーマンスと労働、他者と包摂、歓待と招待。そうした論点をつなぐものとして、「野」という言葉が私の中でしっくりきた。異なる問題のあいだに入り込み、それらを無理なく触れ合わせる言葉のように思えたからである。
私がここでいう「野」は、単なる自然や屋外ではない。むしろそれは、境界がゆるみ、制度や形式が十分には行き届かずとも、何かが立ち上がったり複数のことが同時に発生したり、何かを待たずとも消滅していくような場所や状態を指している。開かれているだけではなく、閉じてもいる。独立しているようで、何かしらとの共存や場合によっては依存を免れない。何かを送り出し、何かを見届ける場所でもある。今回のプログラムを通して私が受け取ったのは、キュレーションとは完成された秩序を与えるという仕事よりも、こうした「野」にどう触れ、どう場をひらき、どう生き延びるのかをめぐる営みなのではないか、という感覚だった。
まず、状態としての「野」について考えたい。これは、制度や形式に回収されきらない性質に関わっている。岩田智哉さんのレクチャーでは、キュレーション史が制度化され、学問化され、ときに権威化されていく過程が整理されていた。本来は既存の展示形式をずらし、共有や偶発性を含む構造をつくろうとしていた実践も、やがて形式として定着し、別の権威になっていく。その反転はとても印象的だった。自由であろうとしたものが、いつか参照可能な型になる。型になったものは、今度は別の誰かを囲い込んでしまう。そのねじれは、キュレーションが常に制度化と脱制度化のあいだで揺れ続けていることを示しているように思う。同時に岩田さんは、検閲の歴史にも触れながら「野良の活動を広めていく」というイメージを語っていたことが私には強く残った。「野良」という言葉が小さな棘のように身体に刺さり、まだ抜けていないのである。野良であることは、ただ外にでることではない。飼い慣らされず、囲われきらず、それでも完全に孤立しているわけでもない。制度や承認という側面に触れながらも、そこから少しずつ逸れ続けること、その柔軟で不安定でしぶとい状態に、私は「野」の手触りを感じた。
大坂紘一郎さんのレクチャーでは「どのようにして現代美術において美的なものと暴力的なものを考える土壌を作れるのか」という問いが投げかけられた。これは状態としての「野」に深く関わっている。大坂さんは都市型のビエンナーレについて、街に染みついた歴史の積層や社会のネットワークの上に現在があり、その 「いま・ここ」を分解し、別のかたちでアウトプットすることの可能性を語っていた。そのとき、キュレーションには分解酵素のような力があるのではないかと感じた。すでにある歴史や制度や感情の堆積を、そのまま保存するのではなく、いったんほどき、別の接続を生み出す力である。けれど同時に、大坂さんの話で重要だったのは、指を差すという行為それ自体がキュレーションであってはならない、という厳しさだった。応用可能な批判のテンプレートを再生産するだけではなく、それ以外のやり方を各自が模索しなければならない。批評とは、何かを断罪して終わることではなく、考え続けるための土壌をつくることなのだと思う。この「土壌」という言葉も、私には「野」と近く聞こえた。すぐには結論にならないものを受け止め、そこで何かが生え、何かが腐食し、別のものへ変わっていくための地面である。
権祥海さんのレクチャーでは、パフォーマンスをめぐる議論のなかで、場が決して中立ではないことがきわめて具体的に示されていた。とくに印象に残ったのは、円形の舞台・アリーナの語源が砂であり、血を吸収しやすい素材であるという話だった。ローマ時代に奴隷たちの闘技場として使われていた歴史をもつその場所は、ただの形式ではない。「アリーナ」が血を吸う砂だと聞いたとき、舞台は突然、無垢な空間ではなくなった。場所にはすでに暴力の記憶が染み込んでいる。そしてそのような場所に対して、複層的なリサーチやパフォーマティビティ、野外という条件が接続されるとき、「野」はのどかな外部ではなく、歴史や身体や危険を含んだ、むき出しの場所として現れてくる。展示が「出来事」へと移るとは、単に時間を扱うことではなく、そうした沈殿物とともに場を引き受けることでもあるのだと感じた。
Shih-yu Hsuさんのレクチャーでは、別の方向から「野」が立ち上がっていた。建築の永遠性・長く残り続けることそのものがマスキュリンな価値観と結びついているのではないか、という指摘は非常に鋭かった。残ることは善である、という前提がそこで少し崩れた。記念碑的であること、長く存続することを価値とする尺度からこぼれ落ちるものがある。彼女のWIKIwomenの実践、つまり男性によって書かれてきた記述の偏りに対して、女性たちが自ら書くことで別の記録をつくるワークショップの話も印象的だった。書かれるもの、残るもの、歴史になるものは誰によって決まるのか。そこには明らかな偏りがある。だからこそ、すでに整えられたアーカイブや記述の外側から、小さな記述を差し込んでいくことそのものが、「野」の働きとして見えた。
また、プログラムの一環で国立新美術館を訪れ、「時代のプリズム」展を鑑賞し、その後トークを聞いたが、そこで語られていた「包摂性の担保」「他者の視点の構築・再構築」「はずれ者の美術」という言葉も忘れがたい。歴史そのものにある他者性を考え、内側からの他者性を考えること。橋本梓さんが話していた、長期的なプロジェクトそのものに価値があること、そして「摩擦も含んだ豊かさ」という言葉は、今回のプログラム全体を考えるうえでとても重要だった。共同性や包摂は、なめらかで均質な調和のことではない。むしろ摩擦があり、すぐには一致せず、時間をかけて変化していくことを引き受けるところにしか生まれない。そのざらつきを消さずに関係を続けていくこと。それもまた、状態としての「野」の一つの条件なのだと思う。
次に、存在としての「野」を考えたい。ここで問われるのは、誰がそこにいるのか、誰がこぼれ落ちるのかということである。今回のプログラムでは、観客を不特定多数の抽象的な存在としてではなく、どのように招待され、どのような条件のもとでその場に現れるのかという問いが何度も立ち上がっていた。Eugene Hannah Parkさんのレクチャーで語られていた、Invitationがfriendsとaudience のあいだにあるという考えは、そのことを端的に示していたと思う。観客は最初から与えられている数ではなく、招かれることによって関係の中に立ち現れる存在である。そしてその招待は、単なる集客の技術ではなく、どのようなエコシステムをつくりたいのかという問いと結びついている。匿名の存在を観客として処理するのではなく、お互いに侵食しあい、絡み合いながら関係をつくること。その発想は、観客という言葉そのものを変えてしまうように思えた。また、「Independent is about dependent」という言葉も強く印象に残っている。インディペンデントとは、ただ自立していることではない。どのような依存関係のなかで、どのようなリソースを使い、どのような環境、予算、規模のもとで動いているのかを問い直すことである。韓国の助成金システムの話は、その現実を非常に具体的に示していた。年に一度の助成金に採択されなければ、プロジェクトの実施が難しくなり、それによって活動の可視性や次の機会まで左右されてしまう。不採択であることによって、活動そのものが見えにくくなってしまう。この不安定さのパラドクスは、インディペンデントであることが単なる自由の称揚ではないことをよく表していた。独立しているようでいて、制度や資源や認知の網の目からは逃れられない。その矛盾を抱えたまま、それでも何かをつくろうとする状態に、私は「野良」であることの現実を感じた。
Avani Tandon Vieiraさんのレクチャーも、存在としての「野」を考えるうえで重要だった。場所の政治学、空間の政治学という視点から、都市が国家的な夢を実現する場所であると同時に、そうではない別の可能性を宿す場所でもあることが語られていた。都市に大きなプロジェクトが入るときの浄化性、国家的なビジョン、開発側や経済側にいる人びとが感情的な言葉で都市の夢を語るとき、そのナラティブからこぼれ落ちる人がいる。権力側の夢物語ではない形で、そうではない人びとをどう考えるのか。都市とは誰のものなのか、どのような権利のあり方があるのか。その問いは都市の話であると同時に、キュレーションの話でもある。誰が語り、誰が語られず、誰の夢が未来として採用されるのか。そこで見えなくされる存在にどう触れるのか。その緊張に、私は強く惹かれた。
Shih-yu Hsuさんのレクチャーやプリズム展の議論で繰り返し出てきた、他者の視点の構築と再構築、歴史そのものにある他者性を考えることも、この層に深く関わっている。他者を外側に置いて語るのではなく、内側からの他者性に向き合うこと。包摂を語ること自体が、しばしば新しい配置やラベリングの暴力を伴うことへの警戒。ここでは「やさしさ」だけでは足りない。見落としてきたものを拾い上げることと、その拾い上げ方そのものを疑うことが、同時に求められている。その鋭さとためらいの両方が、今回のプログラムの大きな特徴だったように思う。
最後に、行為や場としての「野」について書きたい。ここでは「野」は、実際にどう場をつくり、どう記録し、どう招待するのかという実践の問題になる。今回強く感じたのは、キュレーションが展示の構成だけではなく、ワークショップ、共同執筆、出版、パフォーマンス、トーク、読書会、アーカイブなど、多様な形式で場をひらく行為として捉えられていたことだった。Eugeneさんが語っていた共同執筆もその一つである。異なる執筆スタイルや方法を持つ人が集まり、生産性への抵抗としてともに書くこと。それは単なる協働ではなく、新しい招待の方法を探ることでもある。自分の問いと他者の問いのためのスペースをつくり、問いを自分の知らない方向へ流していくこと。学びながら他者を自分の中に入れていくこと。そのプロセスは、整えられた分業ではなく、絡まりあいながら進む思考であり、私にはとても「野」的に思えた。
また、権さんのレクチャーで繰り返し示されていたように、パフォーマンスの場づくりには、身体や労働や安全や責任がつねについてまわる。避難経路、ルール、働く人への配慮、撮影や記録の扱い。そうしたことは一見すると地味だが、場を成立させる根幹でもある。自由な出来事を起こすためには、ただ放っておけばいいわけではない。むしろ傷つきうる身体や偶発性を前提にして、場の条件を細やかに整えなければならない。私はこの感覚に、どこか自分の心身のあり方とも通じるものを感じた。自分のなかに起こる揺れや過敏さや傷つきやすさを、なかったことにして前へ進むのではなく、それを抱えたままどう生きるのか。何を排除せず、何を無理に忘れず、それでもなお他者とともに場をひらくことができるのか。その問いは、キュレーションの倫理と地続きにあるように思う。
今回、講師のみなさんの話を通じて私が強く感じたのは、その語りや思考の明晰さが抽象に偏ることなく、つねに実践の現場に接地したものとして語られていたことだ。そこには、人が場をつくり、関係を編み、記録し、手渡していくことへの信頼があった。けれどそれは楽観的な肯定ではなく、人間たちが見落としてきたこと、取りこぼしてきたこと、排除してきたことを引き受けたうえで、それでもなお何かを差し出そうとする思考だった。自己批判や内省だけで止まらず、その先に、新しい何か、あるいは既存のものを組み替えた何かを持ち出そうとしていたこと。さらに、その思考を観念としてではなく、実際の生のなかで引き受け、サバイブしていること。
「野」とは、秩序の外にある自由な場所ではない。むしろ、秩序の届く場所と届かない場所が触れ合い、その境界がときにほころび、ときに結び直される場所なのだと思う。それは無秩序の賛美でも、何かをただちに解決するための言葉でもない。秩序や制度があることを知りながら、それでもそこからこぼれ落ちるもの、まだ名前を与えられていないもの、十分に保護されていないもの、摩擦を含んだ関係や、長い時間を要する実践のそばに、どれだけ誠実に留まれるかを問う言葉である。開いたり閉じたりを繰り返しながら、そこで何かが立ち上がり、こすれあい、いつのまにか消えていく。その生成と消滅のあいだにとどまること。忘れてはならないものを抱えたまま、ときに羽根で触れるように、ときに刺すような細さでケアを続けること。そのすべてを含んだ場所としての「野」を、私はこれからも、既存の完成された秩序や地図と対話しながら、その綻びを誠実に繕う行為として、制作とリサーチのなかで実践していきたいと感じた。今回のプログラムは、その難しさと必要性を、静かに、しかし確かな強度で教えてくれた。
最後に、本プログラムでレクチャーをしてくださった講師のみなさま、丁寧な心配りとともに全体を導いてくださった岩田智哉さん、そして細やかにサポートしてくださった青木さんに、心より感謝申し上げます。この時間に触れたことで生まれた問いを、今後の制作とリサーチのなかで、簡単に解消することなく、考え続けていきたいと思います。
2026.01
▷ささいな物思いと声について
short text / voice / recording / memory
昼下がりに立ち寄った博物館で蝋管を見てから、どうしてか彼女の様子が変わり、宿泊しているペンションの庭先の椅子にふたりで腰掛けていた。秋の夜風が切り揃えられた前髪を洗いざらしのシーツのように靡かせたところ、立ち上がった彼女は私に背を向けたままカラマツの幹を右腕で抱くようにして、貸し出し用サンダルの先端で土を掘ったり、ラバー素材の靴底で均したりした。時折雲の切れ間から見える細長い月明かりは、異様な形状のまま愛おしい人影と微かに呼応する。そよそよさわさわと葉擦れの音で騒がしく、何か声、それも私たちの聞き慣れた声で乾ききった唇を癒さないといけない気がしていた。
「少し疲れたかな?」
「ううん。黙りこくってごめんなさい」
「そう、たくさん歩いたからと思ったけど。何か嫌なことを思い出したかな」
椅子から立ち上がると、座面に残る温もりが急速に冷めていくのがわかる。借りていた赤いブランケットを羽織るようにして、彼女の横に立った。
「自分の声が何年も、何十年も何百年も経って、想像もできない人に聞かれるのはどんな気持ちがするだろう」
トーマス・エジソンは一八七七年に開発した「フォノグラフ」で人間の声を初めて記録したが、その十七年前にエドワール=レオン・スコット・ド・マルタンヴィルが開発した「フォノトグラフ」によってある女性の声が録音されていたと、説明のパネルに小さな文字で書いてあった。初めて記録された声、一八六〇年に歌われた民謡と一八七七年に歌われた童謡。誰かに語りかけるでもなく、内的な吐露でもなく、親しみのある歌が物質として定着する瞬間、私的なものや実験として残されたありふれた音が、技術と時間を経て変化していく。
「書かれた文字とは違う親しみがあるから、案外恥ずかしくないのかもしれないよ」
「ふうん」
もう遅いから戻ろうと、手を引いて歩き出す。すっかり冷えたつま先を気にしながらスリッパに履き替え階段を上り、部屋の扉を閉めた。ベッドサイドのランプをつけると、彼女がYoutubeで探した「最古の録音」を流し始めた。それはうなりのようなノイズの奥に、かすかに喉を感じられる、なんとも言いがたい音でふたりで顔を見合わせた。
「夜には怖いかも」
「でも、こういうのって好奇心が勝るのよ」
などと言いながら、関連動画に出てくるもののうち、不気味で古めかしい印象のある録音音声を再生し始めた。いつ録音されたのかわからない、何語かも特定できない短い独白、ノイズがひどくてイルカの声にしか聞こえない女性たちの会話、音階をがむしゃらに歌うだけの子供の声。欠伸を我慢しつつ画面のスクロールを見ていると、急に指が止まった。
「どうしたの」
「これ、やばそう…」
見たことのない字体で書かれているタイトル、金属錆のような粉っぽさを思わせる緑色のサムネイルに惹かれ、迷わず再生ボタンを押すが、十秒、二十秒経っても音が再生されず、おかしいなと思いながら音量ボタンを操作する。待てど再生されず、彼女も興醒めしたようで、アプリを閉じた。歯を磨こうと洗面台に立ち蛍光灯の電源ボタンを押した瞬間、ペンション全体に信じられないほどの大きな音、それも耳が痛くなるくらいのノイズとともに低くくぐもった声が鳴り響く。何かを伝えようとしているのか、執拗に同じ言葉を繰り返しているようでもあり、ただカビ臭い木材と乾燥した金属の軋む音のようにも聞こえる。ものの十秒間ほどの出来事の間、私たちは恐ろしく身体を硬直させていた。音が鳴り止むと、彼女は焦りながらスマートフォンを確認する。アプリも閉じていて、音量も戻した、それなのにどうしてと顔が真っ青になっていく。異変に気づいたのか、車のヘッドライトが近づいてくるのが窓から見えた。ペンションオーナーだろうか、ドアチャイムが鳴るが、私たちはまだ血の気が引いたまま動けずにいた。
「下に行こうか」
「うん」
恐る恐る部屋の扉を開ける。非常用の懐中電灯を持って、異常がないか確認しながらゆっくりと慎重に階段を下りる。小さな物音にびくつきながら玄関のドアを開けた。ペンションオーナーだった。
「こんばんは」
「居間の非常用ボタンを押しましたか?」
「いいえ、押してないです」
と、ふたりでオーナーの目を見つめる。彼はおかしいなと頭頂部を掻きながら会釈をして靴を脱ぎ、居間の電気をつけた。夕食を済ました後に飲んだハーブティーのポットとティーカップを片付け忘れていたが、それ以外変わった点は見当たらない。
「ううん、誤作動かなあ」
「非常用ボタンを押すと、大きな音が鳴りますか」
彼女がペンションオーナーに訊いてみるが、彼は首を傾げた。
「ジリジリジリとベルの音が鳴って、警備会社と僕に通達が来るんだよ。とりあえず何もないなら、警備の人に連絡するから」
失礼と言い、電話をかけ始めた彼の後ろ姿を見つめながら、私たちはまた顔を見合わせる。ベルの音ではない轟音のようなノイズと声だったし、あきらかに居間の方から聞こえたような気がした。
ペンションオーナーはアンティーク好きのようで、美しい細工が施された家具や珍しい形の調度品、ヴィンテージの食器などの蒐集家でもあり、この居間も丁寧にレイアウトされ、選りすぐりの品々で満たされている。電話を切った彼はこちらを向き直し、困ったようにこういった。
「数ヶ月前から、非常用ボタンの誤作動が増えて一度点検してもらったんだけど、異常はないみたいなんだよね。どうしてかな」
考え込んだ彼に対して彼女が、変わったことはありませんかと尋ねる。顎に手をあてて考え込んだオーナーがハッとして、いいやないないとひとりでに首を横に振った。
「どうされましたか」
「そういえば、六月の蚤の市で蓄音機を購入したんだよ。ほら、そこのキャビネットの上にあるだろう。とても良い品なのに、安い値付けがされていたから、連れて帰って綺麗にしたんだ。それからかもしれないなあ」
ははは、と彼は笑いながらキャビネットの方へ近づき盤面に針を落とすやいなや、磨かれたホーンは音を立てて落下した。その時の音は、先の低くくぐもった声とそっくりだった。
Notes
Fragments
準備中
Archive
○me and you club「同じ日の日記」: https://meandyou.net/202505-seinatakuguchi/